「数日前マムシに咬まれて、毒が消えず眠ってしまいました。」
幻燈会のあとのアンケートに記入されたこの言葉に唖然とした。
8月7日(金)の午後、長野市芹田地区でのまちの縁側づくり講座。幻燈会の後に炎天下「お喋り歩きのいいとこ発見ウォーキング」をし、さらに「こんな縁側つくりたいナ」ワークショップをやった。
同市信里地区のNさんは、マムシ事件にもかかわらずここに参加された。9日(日)の午前中、信里地区で「遊歩謀讃」(フィールドワークショップ)をやることになっていたので、Nさんはこの日も体調不良をおしてこられていたのだ。
信里は、JR篠ノ井駅から車で約10数分のところにあり、長野盆地と千曲川と犀川に挟まれたなだらかな山地で、多様な自然と里山の暮らしが調和したところ。ここでのワークショップに参加した住民の方々は、「縁側」の思い出が数多く、ある女性は「私にとって縁側は人生劇場です」と語り、涙された。
500戸が散在する信里地区の集落の中には、65歳以上人口が半数以上の所謂「限界集落」に近いところもある。しかし、この日参集した信里住民の奔放さ、愉快さは「限界」を吹っ飛ばす勢いであった。
「信里に生まれてよかったな
自由 元気 助け合い・・・(途中略)
信里はやさしい心のふるさと」
の「信里讃歌」を彼らは高らかに歌い上げた。その場にあったピアノは調律不備から不協和音をたてるしろものであったが、彼らは不協和音を見事に調和のシラベに仕立てあげた。指揮をしたのは銀行員の住民。本当に銀行員かと疑う程に、彼の踊るようなパフォーマンスは笑いサクレツをさそうものであった。そこには心からの表現という無限の生きる力がにじんでいた。
ぼくは直感した。ここには「限界集落」をこえて、「無限縁人地区」の可能性があると。
「縁」はえん、えにし、ゆかり、へり、ふちなどの関係の概念を核としつつ、愛、運命、結婚、偶然といった人間的生におけるかかわりの豊かさを意味している。地域における人間関係がバラバラにされている現代社会にあって、「縁」ということばは、相互支援、絆、友愛、偶発的かかわりなど、あってほしいホンモノの生活文化実現のキーワードである。
そこで、周りとの豊かなかかわりの中に生きる価値を認める存在を「縁人」(えんじん)と呼ぼう。「限界集落」が客観的数字による「外的制約重視」の発想からきているのに対し、「無限縁人地区」は、地域住民の状況の中でたゆまず創造的に仕事も生活も推進する「内的構成重視」の発想にたつ言葉である。「無限縁人地区」は、緩やかなかかわりと共存状態を設定する縁の発想を状況の中で創意的に生かす人々によって営まれる。
信里は「限界集落」をこえて「無限縁人地域」を目指している。
ひるがえって、錦二丁目も夜間人口400人のうち過半数が65歳以上であり、「限界集落」である。しかし、そこはオモシロサとヤルキいっぱいの人々が多い「無限縁人地区」である。両地区とも現実の困難を山程かかえながらも、「外的制約」に負けることなく、「無限縁人」への「内的志向」が著しい。今後、両地区の「無限エンジン」の相互交流と相互触発の関係を紡ぐ過程をたどれるといいナと思う。
以上の仮説を検討するために、今後機会あるごとに信里に赴きたい。「風の人は通いつづけたい」とぼくがいうと、Nさんはすかさず「土の人は変りつづけたい」と。
「風の人は通いつづけ、土の人は変りつづける」ことにより、新しい風土デザインが育まれるにちがいない。